カテゴリー「音楽」の36件の記事

2018/04/30

廣田幸夫と Henriette Puig-Roget と渡辺逹

小学校の時に、近所の英語塾に週一時間だけ通っていた。その先生は YWCA と関係があったようで、一度御茶ノ水の支部 (?) に行ったことがある。

その先生には私の一年上の息子さんがおられて、後に私も通うことになる男子校に入られた。

一方、私は五歳の時にピアノを習い始めたが、初めて楽器というものを意識して魅力を感じさせてくれたのが、新八犬伝主題曲だった。

ここの pizzicato を聴いて「この楽器が好きだ」と思い、親にそれはコントラバスだと教えられた。今、聴き直してみると「違うか?」とも思うけれど、その時はコントラバスを弾きたいと思ったものだった。調べてみると、1973 年。四年生になった時に、コントラバスという楽器を知ったことになる。

おそらく、その後に音楽の授業で白鳥を聴いてチェロを知ったのだと思うが、その時にチェロを弾きたいと思うほどの魅力は感じていなかった気がする。

(新八犬伝書庫)

さて、そこへ英語塾の先生のお子さんから、その中学ではチェロが習える、という話が舞い込んできた。そこで、親に「チェロもコントラバスも仲間だ」と誘導された記憶がある。それは六年生になってからのことだったが、それを種に受験することになり、進学教室に通う身となった。

いざ受験となると、その私立校だけでなく国立の男子校も受けることになり、当初の志望はどこへやら第一志望は国立に転んだ。家の経済状態を心配したところは、あったかも知れないけれど。

そして、二月の受験。私立が先にあり合格。後の国立は一次は通ったが、二次の作文で落ちた。

(その作文は「美しいと思うもの」という題で書かされたのだが、後年、そこの出身者がその年の優秀作品を教えてくれて、それは敵わないと思った。その作品は、山に登ってご来光を迎える様子を描写したものだったと言う。自分が書いた作文があまりに子供っぽくて、思い出すのが嫌になった)

そうして国立に落ちたおかげで、晴れて四月からチェロを習うことができた。

学校にある楽器は四挺だけ。その年は希望者が多くて籤に外れ、最初から楽器を買わなければならなくなったが、親がそれは買ってくれると言った。私立に通わせるだけでも大変だっただろうによく出してくれたと思うが、Karl Höfner の中古の楽器が十八万だったか子供には天文学的に思える額、それに弓が三万八千円だったことの方を鮮明に覚えている。

そこでチェロを教えて下さったのが、廣田幸夫先生である。今そのお名前を探してみても、音楽家になった先輩お二人、樋口 隆一さんと茂木 新緑さんの profile にそのお名前があるのが引っ掛かるのがやっとだが、芸大の先生が非常勤で週に二日教えに来られていると聞いていた。火曜に中一を一学年六組それぞれ一時間と、土曜に高二の音楽選択者を三、四時間。

当時はこの学校には定年がないように聞いていたが、廣田先生は相当年配であるように思っていた。しかし、逆算してみると今の自分より僅かにお若かったことになる!(◎_◎;)

先生には、中一の間は週に一度十分間の休み時間だけレッスンを受け、二年生からは始業前にもう少し長く教えて頂いた。始業前に数人レッスンして頂いていたのに順番を決めた記憶がないのだが、冬は暗い時間に家を出て、中央線で夜明けを迎えて学校に着いてみると、先生が先にいらして燈油ストーブで部屋を暖めて下さっていて、申し訳ないと思いながら同じことを繰り返していた気がする。

先生に習ったのは、チェロと音楽部の活動としての男声合唱。音楽の授業でリコーダーは習ったが、それ以外には器楽を習ったことはなかった。オーケストラをやりたいと言ったことがあるが、それをやるには各楽器の先生を呼んできちんと習わなければいけない、その機は熟していないと言われたように思う。

せいぜい、初めて弾いた室内楽、モーツァルトのフルート四重奏を北軽井沢 (!) の合宿に持って行ったら、上の E の音をその時点で習っていた第四ポジションで取っていたパート譜に、運指を書いて下さった。第一と第四ポジションしか知らなかったのに、第二も第三も使った、全く「子供向け」ではないまともな運指だった。

高二の音楽の試験は自由選択曲で、弾いても歌ってもよかった。私は、チェロはいつもレッスンで弾いているのでそれを改めて授業の試験で弾こうと思いつかず、陸上部に居るピアノ弾きを捕まえてモーツァルトの二台のピアノのソナタを弾いた (「のだめ」は懐かしかった!) のだが、試験の後でぼそっと「チェロを弾いてくれなかったな」と言われて、初めて先生の心を知った。後悔先に立たず。楽器を二つ弾いていたための失敗であった。他のすべての場面で両方続けていてよかったと思ったのだが、この時ばかりは。

さて、私は卒業するまで廣田先生に習えたのだが、その後割とすぐに、先生は中高に教えに来ることができなくなった。後で音楽部の顧問だった先生に伺ったところによると、芸大の弦楽器科に海野さんを呼ぶ時にそのポストを空ける必要があり、廣田先生がソルフェージュ科に行かれることになったのだそうだ。生徒への説明は、芸大で教授になられるので、もう非常勤で来られなくなる、というものだったと聞く。

こちらは大学で管弦楽団に入ったが、そこでは各自の楽器の個人レッスンを受けることが入団の条件だった。その有難い (教育的な) 条件を満たすためもあり、積極的に個人レッスンにお宅に伺うことができた。中高時代、学期中は時間に制約があったから、大学に入ってからの方が濃密にレッスンを受けられた。

今調べると、カンダ・アンド・カンパニー の事件があったのが高三の冬なので、レッスンに行けずに悶悶としていたのが大学一年の時だったことになるが、吉田秀和の批判のおかげか、管弦楽団で肩身の狭い思いをしないで済む程度の時期にレッスンを再開して頂けたのだと思う。

その後、修士論文だったか博士論文だったかで忙しくなったあたりでレッスンをやめてしまったが、西武線で実家から四駅という地の利があり、同窓の管弦楽団員の中で一番多くレッスンに通ったと思う。

先生は、レッスン代を取って下さらなかった。それは奥様の意向だそうで、戦後の苦しい時代に教師を校内に住まわせてくれた学校に恩義を感じ、戦後三十年以上後の我々からも、卒業後であっても取って下さらなかった。

さて、ソルフェージュ科に行かれた先生から伺ったのが、Henriette Puig-Roget 先生のことである。

「ロジェ先生」と呼んでいらしたが、先生を芸大に呼んで来たのが自分の最大の功績である、と口癖のように言われていた。

中高に非常勤で来られなくなってからも音楽部の指導にはいらしていたのだが、その演奏会にロジェ先生も呼ばれたそうだ。

廣田先生が作曲科の先生に委嘱されたのだったか、詩篇の男声合唱を初演したと伺ったように思う。それを始めとする合唱曲を聴いてもらうのが主だったのだろうと想像するが、私にとっても大先輩の渡辺 さんのピアノを聴かれたロジェ先生が、「彼のピアノは立派だ」と言われたと、後年聞いた。

私が中高生の時にも一度、廣田先生と (渡辺) 逹さん達先輩で、シューマンのピアノ五重奏を弾かれたことがあった。OB が自然に演奏会に参加する音楽部だった。廣田先生の教え子が年に一人はいたから、器楽ではチェロが余る部だが、足りない楽器に OB を呼んでブランデンブルク協奏曲も 4, 5, 6 番は弾いたし、2 番は後輩が弾いた。ただし、2 番のトランペットはクラリネットが吹いたそうだ。

廣田先生は、一昨年の同窓会でお元気で、昨年もいらしたそうだがこちらが上を下への大騒ぎで出席できなかった。

逹さんは、2012 年に急逝され (訃報)、先生は大変嘆かれていた。もちろん、我々も落胆し、学校の食堂で開いた会は、卒業以来会っていなかった人にも沢山会った。

計算すると、14 年上の先輩ということになるが、音楽部の毎年二回の演奏会には必ず来られて各曲にコメントを下さった。そして、おそらく廣田先生が非常勤講師として来られなくなってから特に、音楽部の活動を支えて下さって、幅広い同窓生がお世話になった偉大な先輩だった。

亡くなる前年に吉祥寺で音楽部の同窓生の集まりを企画して下さり、そこで私はずいぶん久し振りに廣田先生と逹さんにお会いできたのだが、逹さんとはその時が最後になった。

廣田先生に何度も言われたことがある。音楽は職業とせず、趣味にしなさい、と。同じことを、大学の管弦楽団の指揮者二人からも、言われた。夢に見たことはあれど、とても自分の力の及ぶ世界とは思わなかったが。

一昨年お会いした時も、皆に向ってそのことに触れられ、ならなくてよかったでしょ?  と確認されていた。同窓には、守らなかった者も少なくないのだけれど。

先生が、どのようにして音楽学校を目指されたか、聞いたかも知れないが覚えていない。しかし、ご経験に基づいた信念だったのだろうと思っている。


 

廣田先生のお歳を正確に覚えていないが、一昨年九十歳は越えていらしたと思う。父よりも五年以上上の筈で大正のお生まれだと思う。音楽学校から戦争に取られて生還されたと伺った。

素晴らしい音楽の先生であると共に、偉大な教育者でいらっしゃった。

次の同窓会が開けてお会いできることを、祈っている。

 

2017/10/12

iPad で室内楽

iPad に楽譜を映して弾くという話をちらほら聞き始めた頃、「ボロメーオSQ」という名前が耳に入り、ブルーローズに聴きに行った。
iPad でなく MacBookPro を使っているらしいのは既に聞いていて、横長画面に見開き二頁の楽譜を映すのだろうかと想像していたが、見たら違った。映していたのは一頁だけ。
画面の縦の長さが理由だっただろうか。

その後に、この記事を読んだ:

 

印刷された楽譜の代わりに、みんなでMacBook Proを使って演奏するというのがおもしろい

 

その時はまだ、自分で室内楽を弾くのを再開していなかったし、iPad Pro も存在せず画面が小さ過ぎるのではないかと思って見送っていた。
ただし、紙の楽譜から離れた理由は強く印象に残っていた。

 

なぜ楽譜をデジタル化するかについては、まずはスコアを見ながら演奏したいというのが出発点だったとか。ヴァイオリンのニコラス・キッチンによれば、パート譜で演奏していたころは、練習時間の多くが他人が何を弾いているのかを確かめるために費やされていたけど、4人がスコアを見れば効率的である、と。さらに「作曲家がアンサンブルに同一性を求めなかった場合でも自信が持てる」ということで、ベートーヴェンがそれぞれの楽器に異なる弾き方を要求しているときに、すぐに発見できるのが利点。さらに練習では手稿譜もデータで参照しているそう。

 

その本番で、手稿譜を使っているのを見た。
繰り返しや da capo は、単純に演奏順に頁が並ぶように、つまり必要によっては同じ頁を二枚入れた pdf ファイルを作っていると聞いた。

 

二年ほど経って、iPad Air 2 は既に家にはあり piaScore の存在も知ってから、十数年振りに弦楽四重奏を弾くことになった。
iPad Pro はまだ世に出ていなかったように思う。見開き二頁見られる A3 の画面があったらよさそうだと思った記憶があるから。
ともかく、この時は紙の楽譜を使った。せめて A4 大の有効画面が欲しいと思ったのと、ペダル (AirTurn PED) を買うのに躊躇したのが理由。

 

だが、「スコアを見ながら」は気になっていたので、紙で実行してみることにした。
コピー機が扱える大きさで A3 を紙の一頁にし、そこに楽譜の四頁を収めると、見開きでスコアが八頁になる。そこに一楽章が収まったのだったか、長い休みを使って一回譜面をめくることにしたのだったか忘れたが、その巨大な楽譜を使って演奏会の本番まで弾けた。
ただし、この大きさの紙を譜面台に載せても縁が垂れてしまうので、A3 のボール紙を二枚つないだものを支えとして載せ、その上に楽譜を置いた。
二重奏やチェロアンサンブルで全パートを見ながら弾く経験が少しはあるが、弦楽四重奏では初めて。

 

まず、初見で弾くのがとても楽。誰が何を弾いているか (弾くべきか) を知って弾くので、落ちる (現在、譜面上のどこを弾いているかわからなくなる) ことがほぼなくなる。
曲の全体像が見えているので、自分が誰と一緒に弾くのか、あるいは誰から受け取って誰に渡してフレーズになっているのか、わかって弾くようになった。合せる前に予習しておくべきことだけれど、昔はできていなかった。

 

そうこうしている内に iPad Pro が出た。次の演奏会の予定が決まったところで、Apple Pencil と AirTurn PED と一緒に買った。
piaScore を入れてみたら、基本機能 (無料版) として pdf 楽譜が表示できるが、IMSLP にあるものは pdf ファイルを意識することなく、直接検索して使える。
有料版にすれば、一頁ごとの写真ファイルから一連の楽譜が作れるので、紙の楽譜をスキャンして使うこともできる。
なお、piaScore を試すのは iPhone でも可能。演奏は難しそうだが、楽譜を読むだけならこれで充分。

 

iPad Pro なら Apple Pencil が使えるので、書き込みは鉛筆で紙に書くのと大差なくできる。書き込みに層構造が使えるともっと有り難いのだが、今は一層しかない。色分けできる利点はあり、紙と同様に「消しゴム」で修正することもできる。
臨時記号や弓記号などの「スタンプ」が使えるが、これは練習中に書き込むのは難しい。とりあえず Pencil で書き込んでおいて、後で綺麗にするのには使える。
テキスト機能もあるが、これはペダルが bluetooth keyboard に見えているようで、ペダルを切るかペダル側のボタンを押さないと文字入力ができない。これも、一人の時に綺麗に書き直すのに使う程度。

 

予想外に苦労しているのは、ペダルの扱い。
単純に左右二つのスイッチがあるだけなのだが、靴底によって動作が違って感じられるし、意図せず二回踏んでしまうことがあって、慌てて戻すことが割とよく起きる。
頁を上下半々に分けてめくる機能があり、これは先読みできるので便利。ただし、踏み間違いで戻る時には混乱する。
iPad を横長に置くと、二頁表示になる。これも、二頁単位でめくることと、一頁ずつめくって先読み可能な表示にすることができる。
ペダルの bluetooth device としての pairing は、最初に一度やればよいはずだが、デバイスが iPad から見えているのに譜めくりができなくなる事故が、数回あった。これは、双方でペアリングを reset し、最初からやり直すと再び使えるようになった。

 

この後、iPad Air 2 も楽譜として使うようになった。軽いことの利点が大きい。
画面が小さいことは、案外問題にならない。譜面が明るいことが効いているようだ。管弦楽でスコアで弾くことはあまりなさそうだが、pit に入って使うのには圧倒的に紙より便利だと思う。
書き込みは、指ではかなり雑にしかできないが、「iPad 用」を謳った stylus (?) を使えば、そう困らない程度には書ける。

2016/09/11

楽譜と鍵盤

弦楽器を弾く仲間に、楽譜を読むのが苦手という人が少なからずいる。

その人達と話している中で、「今使われている楽譜は鍵盤楽器用にできているから」という言葉が出てきて驚いた。

弦楽器は、音の高さと弦を押さえる位置が対応している (正確には、振動する部分の長さと周波数が反比例) が、楽譜上の音符の高さの差は半音も全音も同じでピアノの白鍵に対応している、という主張 (A) だった。

私はピアノが最初の楽器だが、そういうことを考えたことはなかった。

私が自分で考えている楽譜の読み方 (B) は、

  1. 音符の高さを読む
  2. 音の高さを認識する
  3. その音の鍵盤を弾く

である。A の主張は 1. から 3. に直結しているというものだと思うが、B では 2. が重要で、音を経ずに鍵盤に到達するのはかなり難しい。不可能とは言わないけれど。

A の主張をする人は、頭に浮かんでいる音の高さに押える位置を対応させて弦楽器を弾いているのだろうと想像しているように感じた。

楽譜が五線になる前、主な使い道は歌ではなかったろうか。音符が音に対応するのが、最初の使われ方であったように思う。

そう言えば、ピアノは白鍵より黒鍵の方が使用頻度が高い気がする。弾きやすいから。最初こそ白鍵から習うが、自分が弾きやすいのは Des, Ges, H dur あたり、つまり黒鍵五つと白鍵二つを使う調。♭   を見た時、白鍵の隣の黒鍵と認識することはなく、まず音が移動してから対応する鍵が浮かんでいるようだ。

2016/04/04

読み方を教えない虐待

久しぶりに弦楽四重奏を始めた。

Quartet

初練習でのこと、四人のうち三人は大学の同期生でおよそ様子がわかっているが、ビオラだけ同期の都合が付かず、後輩に頼んで初顔合せ。ビオラはとても上手で、曲のこともよくわかっていた。スコアが頭に入っている感じで、安心感がある。

練習後に四人で話した。学生の時に一度だけ管弦楽の演奏旅行に一緒に行ったことがあるが、その時はバイオリンであった。ビオラはここ三年ほどとのこと。バイオリンは単独で聴いたことがないが、上手いに違いない。ただし、楽譜を読むのに苦労しているということだった。

珍しいことではないのだが、バイオリンの人の中に、とても上手だが楽譜が native language になっていないように思える人がいる。なので驚くことではないのだが、その点で今でも苦労しているという話だった。

驚いたのは、ビオラの方。ビオラはバイオリンとは違う音部記号、アルト記号を使うので、ト音記号から来た人もヘ音記号から来た人も、読み方を新たに覚える必要がある。ならば、バイオリンで苦労した人は新しいアルト記号ではそこを克服できるだろうと期待した。ところが、ビオラの新しい音部記号でも、やはり苦労しているのだそうだ。最初に楽譜を読むことを身に付けなかったのが、second language でも尾を引いているようだ。

これは音楽に限らないことのような気がした。話し言葉を耳から覚えるのは母語では当たり前のことだけれど、読み書きは大人の介入が必要。小学校で習えるから問題になることは学習障碍以外ではあまりなさそうだけれど、もし教えなかったらそれは大変な虐待である。

これは、第二言語以降でも同じことだと思う。その言語環境に抛り込まれれば話し言葉は身につくけれど、読み書きには努力が必要。日本の英語教育は、長い間その逆をやってきて話し言葉を身につける機会を与えないことが多かったわけだけれど、読み書きを先に叩き込んであるので、その言語の環境に抛り込まれたあとは有利であると感じている。

今、始まろうとしている英語の早期教育がどのような方針なのか把握できていないのだが、この「虐待」に当たらないことを強く願う。

2016/03/08

指導者を得ること

専門家の指導を仰げばよいのに、と思うことが重なった。

 

音楽

楽器

楽器を始める時に専門家の指導を仰ぐのは、比較的多くの人が当然のことと受け入れているように思う。それは子供の時に始める場合に限られるのかも知れない。

就職してから出逢った中には独学でチェロを始めたという人もいて、驚いた。楽譜が読めて教本があれば、それで始められると思うのかも知れない。

しかし、ほんの些細なことに思えて他人に指摘されるまで気がつかないことがどうしてもあるし、今の自分の技術水準で特に足りないのがどこかを指摘してもらうことも、とても有効だと思う。今からでも習えばずっとよくなるのに、と思うことが多い。

 

合奏

自分が中学で弦楽器を始めて以来、管弦楽で弾いてみたいと思っていたが、その機会は大学までなかった。

中高の間は部の活動で、楽器は小さな合奏、最大でBrandenburg協奏曲の四番程度のものを弾き、主には四部合唱をやっていた。合唱は音大から非常勤でいらしていた先生に指導して頂いたが、楽器は足りないパートを卒業した先輩に頼んでいたので意見をもらうことはあったものの合奏全体を見通して指導してもらったことはほとんどなかった。合唱で受けた指導は、その後の器楽にも役立っているが、合奏経験は「この曲を弾いたことがある」に留まっている。

 

管弦楽

大学では管弦楽団に所属したので、全体合奏も弦楽器だけの「分奏」も、専門家に指導して頂いた。各自、楽器を専門家に習うことが参加の条件になっていて、唯一自力でやっていたのは同じ楽器の「パート」の中の練習だった。それも、時々は専門家に見て頂く機会があった。

同じことを何度も言われて腑甲斐ないと思ったところも多々あるけれど、当時受けた基礎的な訓練は有効だった。専門家に指揮してもらって得られるものと別の次元で、糧になっている。

 

室内楽

一方、管弦楽団の中で有志で室内楽 (最低二人、主に三から五人、多いもので八人程度の合奏) をやる機会がよくあった。合宿の宴会前とか学園祭とか。それを専門家に見てもらう習慣がなかった。学生ゆえ小人数でお願いするのは負担が大きかっただろうとも思うが、先輩に見てもらうだけでもずいぶん違ったのではないかと今にして思う。もったいない時間の使い方だった。

就職してからは職場の管弦楽団に所属し、そこでも室内楽をやった。メンバーに経営者だった方 (要職を退任されてから楽器を再開されたのだと思う がいて、「四重奏やるならレッスン受けよう」という言葉が自然に出てきた。

率直に言って、それまで考えたことのない提案で面喰った。しかし、レッスンは濃密な時間で、とても得るところが多かった。我々の側は、決して譜面通り弾けていないし、言われたことがすぐできるようになる訳でもない。でも、言われたことは納得できたし、その後の指針になった。

後から考えて、足りないところに外の力を導入しようと考えられるのが経営者の視点なのだな、と思った。大学で同期だった友人と室内楽を続けていたら、そのままずるずるとやっていたのではないかと思う。

 

写真

写真を撮るのは好きだったが、デジタルの時代になって「シャッター速度を選べるコンパクトカメラはないか?」と思った程度で、「独学」すらせずに撮っていた。その頃の写真を見ると、日の丸構図の山。

SNSの時代になって写真家と交流ができ、話を漏れ聞いている内に、「三分割法」という言葉すら知らないことに問題を感じた。まず本を読んで基礎知識を仕入れた。

SNSに撮った写真を載せてコメントを頂ける機会があり、視野が広くなった。

カメラを買うにもアドバイスをもらったが、買ってからは、そのメーカーの講座に参加できるようになり、様々な撮ったことのない分野を経験することができた。

そして、去年は写真家ご本人の写真教室に参加することができた。その場でもらったアドバイスは数点だけれど、アドバイス前後で違う写真を撮っているのが目に見える。

きっかけになったこと

この記事を見たのが、この記事を書くきっかけになった。

体験に基づく否定を信ぜよ         http://lord.takerunba.com/entry/2016/02/25/004528

> 特別なことに経験がある人の否定的な意見は信ずるに足る。

否定的なことに限らない。先駆者があるなら、まずそこから得られるだけのことを学んで、その先を目指したらよいと思う。

 

これもその一例 http://diamond.jp/articles/-/86961

 

先が短いと感じる年齢になり、時間を有効に使いたいと強く思うようになった。物より知識に投資したい。

車輪を発明するのは楽しいかも知れないが、それをする時間の余裕は自分にはもうない。誰かが作ってくれた車輪があるなら、それを使って何ができるかを考えたいのである。

 

2016/02/21

スコアを見て室内楽を弾くこと

スコアを見て弾ける

紙の譜面しかなかった時代には、管弦楽も室内楽もパート譜を見て弾くのが当然だと思っていた。ピアノだけはスコアを見られるけれど、自分で譜面をめくる楽器は、自分のパートだけにしないとめくる余裕がない。

しかし、2013 年、Borromeo Quartet を聴いて目から鱗が落ちた。譜面を電子化する利点は、譜めくりの便だけではなかった。

http://northwestwind.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/pdf-c58d.html

10 番は印刷もののスコアだった様子。見開き 2 ページを一画面にしていて、めくりには気が付かなかった。 11 番は、手稿らしい横長のページのスコアで、三段の譜面。1 ページしか表示していないので、一楽章などはすぐにめくりになる。しかも、ページごとに傾いていたり折れているところがあったり、めくったことが一目瞭然。譜面に興味がなければ、目障りに感ずる人もいるだろうと思う。 12 番は印刷譜のようだったが、なぜか一面に 1 ページしか表示していなかった。文字の書き込みは目立たなかったが、蛍光ペンのような色で塗ったところもあった。電子ファイルだから、何を書き込んでもオリジナルは残しておけるわけで、書きたい放題だということを、どこかで読んだのだった。

http://www.classicajapan.com/wn/2013/03/190042.html

なぜ楽譜をデジタル化するかについては、まずはスコアを見ながら演奏したいというのが出発点だったとか。ヴァイオリンのニコラス・キッチンによれば、パート譜で演奏していたころは、練習時間の多くが他人が何を弾いているのかを確かめるために費やされていたけど、4人がスコアを見れば効率的である、と。さらに「作曲家がアンサンブルに同一性を求めなかった場合でも自信が持てる」ということで、ベートーヴェンがそれぞれの楽器に異なる弾き方を要求しているときに、すぐに発見できるのが利点。さらに練習では手稿譜もデータで参照しているそう。

 

MacBook Pro を電車で持ち歩くのは無理があるし書き込む手段も必要だからすぐには真似できないが、「スコアを見て弾く」というのは頭に引っ掛かって離れない。近々、十年ぶりくらいに室内楽を弾けそうなのだが、紙の譜面でなんとかならないか、思案している。

iPad を使っている人はいるそうだし、iPad Proの大きさなら、二枚使えば充分使えそうではある。指揮者用譜面台なら問題なく載りそうだが、それも持ち運べるようになった時に実用になるか。

今回は時間的にも間に合わないので、紙で行くしかなさそうなのだが、老眼になって、譜面を拡大コピーしている人は多いと聞く。譜面台はおよそ A3 見開きを想定して作ってあるが、裏打ちがあれば A2 見開きならいけるのではないか? それなら、一頁にスコアの四頁を印刷すれば、見開き八頁分は行ける。手元のスコアで試してみたら、そのくらいあればなんとかめくる場所はありそうだ。何も頁の最後でめくる必要はないので、めくれる休符のある「元の頁」を、見開きのめくる前とめくった後と、二箇所に刷っておけばよい。

まだ試していない。とにかく自分のパート用のスコアを作ってみよう。

 

製本

ところで、製本には学生の時からスティック糊を使っていて、粘着テープによる方法は後から聞いたがやったことがない。探したら、

があった。どちらも

2ページずつになった見開きの楽譜同士を、本のようにしていく作業に入ります。 組み合わせた楽譜を取り出し、その片側にのりをつけていきます。

ところには進歩はないようだ。

両面コピーを使ったら、もう少し省力できないか? 三枚以上の両面印刷紙を綴じるのに、あまり上手い方法を思いついていないのだけれど。

2015/10/18

数学と音楽

子供が勉強をする時に、器楽の録音を聴いていたら、「音楽があるとできない」と言われた。
私とは違うが、それは不思議ではない。

 

ところが、今日は歌の録音を聴きながら勉強をしている。
器楽は駄目で歌が入るといいのか? と訊いてみたら、数学と音楽が両立しないのだという。
そういう仕組なら納得するが、自分は音楽を表層的にしか聴けないのか、と思った。

2013/06/08

ボロメーオカルテットの pdf 楽譜

ベートーベンの 10, 11, 12 番の回を聴いた。
10 番ハープは、緊張していたのか調子の出ないところがあったが、11 番から絶好調。
幸福な一時を過ごした。

 

この日は、ファースト斜め後ろの「サイドビュー席」の最前列で聴けたので、話題の「譜面」も見ることができた。

iPad で弾くという話もいくつか聞いているが、それは画面が狹いだろうと自分が真似するのには抵抗があった。格好は悪いが、この日のファーストのサイズ (MacBook Pro らしい)  なら自分でも使ってみたいと思った。

そこに表示されていたもの。
10 番は印刷もののスコアだった様子。見開き 2 ページを一画面にしていて、めくりには気が付かなかった。
11 番は、手稿らしい横長のページのスコアで、三段の譜面。1 ページしか表示していないので、一楽章などはすぐにめくりになる。しかも、ページごとに傾いていたり折れているところがあったり、めくったことが一目瞭然。譜面に興味がなければ、目障りに感ずる人もいるだろうと思う。
12 番は印刷譜のようだったが、なぜか一面に 1 ページしか表示していなかった。文字の書き込みは目立たなかったが、蛍光ペンのような色で塗ったところもあった。電子ファイルだから、何を書き込んでもオリジナルは残しておけるわけで、書きたい放題だということを、どこかで読んだのだった。

めくりはペダルで一瞬だが、11 番など、ペダルでめくることがほとんど無意識にできるようになっていないと、これで演奏はできないだろうと思う。
曲の最初では、数回ペダルを踏んでページをざっと見ているようだった。前進も後退も、すっかり身に付いている様子。

ところで、正面で聴く必要は全くないと思って会場に向かったのだが、一つだけしまったと思ったところがあった。ファーストの音が遠いのである。隣のビオラはよく聞えるので、どうやら楽器の本体が奏者の影に入ってしまって、直接音が聞こえなかったところが原因であった気がする。フィリアや昔のカザルスホールの二階なら、横でも楽器が見えないという事態はなかっただろう。段のない客席で横からカルテットを聴く場合の問題点があるようだ。
このカルテットは、セカンドが上手にいるのだが、セカンドは楽器が裏になるという意識からだろうか、楽器を客席側に出そう出そうとしているのが感じられた。それに対し、下手のファーストにはそういう意識がなく、楽器はいつも自然な姿勢の左前にあった。たまたま私の席は、奏者に関して楽器と正反対の位置にあったので、一度も直接音を聴けなかったのだった。

2013/04/12

CD のような

従妹弟の披露宴で、チェロを弾くよう頼まれたことがある。

無伴奏で弾くのも苦しいので、ピアノの叔母に一緒に弾いてくれるよう頼んだが、振られた。

仕方がないので、当時一緒に弾いていた室内楽のメンバーに頼んで弦楽四重奏を持って行った。

 

賓客 (本題から外れるが、主賓と対になる言葉を知らないので探したら、陪賓であった) を迎える間も弾いていたのだが、その中の知り合いが寄ってきて言うには、「CD のようですね」。

驚いた。どうやら誉められたらしい。悪意のない発言であった。

 

しかし、生演奏を聴くこと演奏することの価値を痛感する身としては、録音のようだと言われたのには、それを否定されたという第一印象を持たざるを得なかった。

録音のようであるならば、録音を使えば済んだのではないか、と。

生ゆえに事故を起こすこともあるのだが、それでも、新郎新婦を知っている人間が生で弾くことに価値があると思っている。

 

それは聴く方にもつながっていて、東京でさまざまな演奏を生で聴ける環境を有難いと思う反面、録音を聴くことに投資してもしょうがないと思ってしまう。

楽器を弾く友人の中には、超高級な再生装置を持っている方もある。それで聴くのは確かに迫真の音なのだが、でも、自分はそこに投資するだけの資金があったら生を聴くことに費やしたい。

演奏者と聴衆とが一対一でなくても、生を聴くことで演奏家から受け取れるものは、録音できる情報とは比べようのない価値のあるものだと思う。

2012/02/29

楽曲

楽曲という言葉を初めて聞いたのは、15 年くらい前だったろうか。日本製の電気増幅音楽の世界の言葉だったように思う。辞書には

がっきょく(ガクキョク)【楽曲】
声楽曲・器楽曲・管弦楽曲などの総称。
Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997

がっ‐きょく 〔ガク‐〕 【楽曲】
音楽の曲。声楽曲・器楽曲・管弦楽曲などの総称。
デジタル大辞泉

とあるが、それまでは、「曲」という表現にしか接したことがなかった。
辞書の説明は、「○○楽曲」を並べた言葉遊びのようにも見える。交響曲、協奏曲、独奏曲、合唱曲、歌曲はどうなのだ?

自分の日常語彙には他に「曲」と言うものがないので、紛れのないものをわざわざ長く言う意図が理解できなかったのだが、その後、無増幅音楽の世界でも「楽曲」という語を耳にするようになった。
元から使われていたのか、それとも増幅分野から輸入したのか、判別できない。「曲」と区別する必要を感じている人がいるのだろうか?

「曲」と言えばよいものを、わざわざ長く言い換えて虚勢を張っているように思えてならないのだ。