カテゴリー「文化・芸術」の19件の記事

2013/10/21

元号と旧暦と干支

学校の新入児検診を担当した友人が、「平成 20 年生まれの子供が来た!」という驚きを書いていた。

しかしそれを見て、私はまず「平成 20 年」とはどんな年なのかを考える必要があった。2008 年だと換算し、それを自分の子供の年齢と比較し、検診に来るのは五歳児なのだから当然五年前に生まれた早生まれの子供も来るな、と「理解」したのだった。

書いた友人は、この仕事で学校と関わりがあるので、「平成 20 年」というのがどんな年かが直観的にわかり、20 年代生まれの子が小学生になることが感慨深かったに違いないのだが、そこを共有することが難しかった。

私も、自分が学生であった時までは、元号を認識できていた。平成になったのも学生の内であったし。しかし、仕事をするようになり、すっかり縁遠くなってしまった。

 

そんなことを考えていて思い出したのが、自分の干支のこと。

私は西暦で辰年生まれだとずっと思ってきたのだが、和暦いわゆる旧暦を意識するようになり、そこに疑問を持つようになった。誕生日は西暦の 1 29 日。それは旧正月より前であることも多い。

では、自分が生まれた年はどうだったかと調べた。果して、その年の西暦 1/29 は、和暦では前年の師走十五日であった。干支を西暦年に結びついたものと考えるのは、牽強付会に感ずる。

四十数年間、自分は辰年生まれだと信じていたのだが、卯年生まれであったようだ。

2013/08/28

プールの祈り

近所のプールでは、監視台に座っている監視員が交替する時に儀式がある。前の監視員が異状のないことを確認してから、後任に引き継ぐ。

やっていることが確認であることは想像できるのだが、何度見ても、それが何かの祈りのように見えてしょうがない。

監視台からプール面を右から左へおよそ 30°ずつ確認して行くのだが、その時に手刀を切るのである。指差確認の方が違和感が小さいだろうと思うのだが、これが手刀になると、祈っているように感じられてならない。

プール面を確認した後、上を仰いでさらに数回手刀。これは、地震で天井が落ちたプールがあったことに対する追加の確認作業なのだろう。そういう意味付けは考えられるのだが、天に祈っているように思えてしまう。

このプールないし自治体内のプールでの習慣だろうと思っていたのだが、隣の自治体のプールに足を伸ばすことがあったら、同じ儀式が行われていた。
さらに遠くの民営化されたプールでは、そのような儀式はなかった。
どの範囲でこの「祈り」が行われているのか、興味がある。

2013/08/27

アルプス一万尺とグランドキャニオン

この夏は久しぶりに上高地を歩いてきた。今回徳沢まで行ったのが一番奥で、それより高くに登ったことはないのだが、見上げる稜線に、グランドキャニオンの底から見上げる縁 (rim) を思い出した。

考えてみると、上高地が五千尺、小槍が一万尺 、標高差もおよそ五千尺 1,500m である。

対するグランドキャニオン、底の宿が 750m、南の縁が 2,150m ほどで標高差は 1,400m。似たような関係であった。

無論、絶対標高が高くて気圧の低い方が苦しいに決まっているし、上の方が交通も設備も整っている谷とは比較にならないけれど、自分の知っている物差で穂高連峰を感じることができるようになった。

2012/06/23

「お疲れ様です」

さる大学の図書館を使うのに、短大の区画を通る。すると、すれ違う学生が部外者に「お疲れ様です」と言う。大学ではそんなことはないのだが、短大生は男女ともそう言うものらしい。
同じ言葉を返すのもどうかと思い、どう返答したものか窮していたのだが、ふと「こんにちは」と言えばいいのだと思い至る。今まで、ずいぶん失礼なことをしてしまった。
他の場面でも、「こんにちは」で済むところを、ずいぶん変な言い方をしていることがある気がする。気軽な挨拶というのが、日本語では難しい。ここの短大生だって、部外者には「こんにちは」と言ってくれればいいのに。

2012/06/04

夏服

山手線の走るような都会に行くことは稀になったが、中へ通う中高生は見かけることがある。
今年は五月にあまり夏服の必要を感じなかったのか、六月になってから初めて夏服を見た。水兵風の夏服というのは清々しい。仔細に見ると、本当に涼しいのだろうか? と思う部分もあるのだが。

2012/05/17

京王多摩川駅はなぜ「京王」なのか

京王線の駅には、「京王」が頭に付くものは少い。

 京王八王子、京王片倉、京王稲田堤: 国鉄の駅と離れていた
 京王多摩センター、京王永山: 小田急の同名駅と定期券の表記を明確に区別する意図があった
 京王堀之内: 京急の堀ノ内と識別する意図があった

という理由は推測が付く。
わからないのが、京王多摩川である。現在は東急に多摩川駅があるが、歴史を見ると、京王多摩川の駅名が決まった 1937 年は、東急が多摩川園前になった 1931 年より後のようだ。
過去の東急の駅名に遠慮したのか、二子玉川や和泉多摩川に遠慮したのか。既設の○○多摩川に遠慮するのであれば自然な配慮に思えるが、数十年後に再び「多摩川」になった東急の駅は、それに比べて無遠慮に感ずる。
多摩川に近いという情報の他に流域のどの辺りかを示す識別子を入れたくなるという理由はわかるのだが、それなら、京王の本線が多摩川を渡る中河原―聖蹟桜ヶ丘の方が、「京王多摩川」を想起させる位置のように思える。

小田急も社名が頭に付く駅は少いが、東急には一つも思いつかない。それが、強盗慶太の流れを引く文化? 国鉄の都合で武蔵溝ノ口に合せる必要もないように思うが、他線の駅名を意に介さず地名部分だけを取って駅名にするところは、多摩川駅と同じ流れのような気もする。

2012/02/02

咳止飴の騒音

楽器を弾くので、クラシックの演奏会にもよく行く。
クラシックの演奏会は静寂を前提としているということには、共通認識があるように思う。音が出ている間に咳を我慢していたのだろう、もっとも静寂であって欲しい楽章の間で、盛大に咳をする人が多いからだ。
私自身は、実は咳はあまり気にならない。生理現象だから仕方ないと思うからかも知れない。楽章の間の砲列を別にすれば、無理しないでよいのに、と思ってしまう。

それよりずっと気になるのは、飴の包み紙の音だ。咳に比べて大きな音だとは思わないが、耳障りな音が長く続くので、聞き流すことが難しい。これを考えてみると、咳はたいていは一発で終ってしまうから気にならないのかも知れない。
音量の大きいところで目立たずに剥く人もあるのかも知れないが、耳をそばだてるようなところで盛大に「バリバリバリ」とやられると、演奏を聴くどころではなくなってしまう。
剥いている本人だってあの音はうるさいだろうと思うのだが、耳で聞いて判断するのでなく、「こうあるべし」と決めた枠にはまっていればよしということなのだろうか。

一時間おきタイマー

賃貸住宅に住んでいるが、空調機のタイマーは一時間単位でしか入る時刻を指定できない。洗濯機は自分で買ったものだが、これも同様である。正確には、空調機は指定の温度に到達する時刻、洗濯機は洗い上がる時刻までの経過時間の指定だが、60 分刻みでしか指定できないことに変わりはない。
これは非常に不便である。
洗濯機は、朝起きる時に洗い上げて、それ以上に早くから音をたてないで欲しいし、暖房を入れる際、起きる前に指定温度になっていても電力の無駄である。
仕方がないので、寝る前に時計を見ながら、いつタイマーを仕掛けるかを考える羽目になる。

空調機については、これよりも十年近く前に自分で買ったものは、十分単位で時刻を指定できた。賃貸だから最低級のものが付いているが、高級機を買えば十分単位で指定できるのだろう。しかし、タイマーの電子回路にわざわざ機器の等級による差をつける方が、合計の製産費用は高くなるのではないかと疑いたくなる。そんな基本機能でなく、「マイナスイオン」だの「プラズマなんとか」だの、妖しい付加機能で差をつければよいのではなかろうか。換気機能などは、高付加価値のために高価格が受け容れられるものだと思う。

洗濯機についても、いつ洗濯しているかわからないような超高級機であればタイマーの分解能が粗くても問題はないだろうが、なぜこのような仕様を思いついたのかが、理解できない。もちろん、一時間単位で困らない利用者もいるだろうけれど、それでは困る利用者もいることに思い至らないのだろうか? ある社の洗濯機のページを見てみたが、機能比較をしてもタイマーについては何もわからなかった。取扱説明書を片端からダウンロードして読んでみないと、自分が求めるタイマーは得られそうにない。


これらの機器に、せめて十分単位の分解能のタイマーが付いていて欲しいと思うことは、ごく特殊な要求なのだろうか?

街中騒音と電車内騒音の文化差

iPhone のサイレントモードが使いにくいという話をしていて、電車の中で携帯電話の音を極端に嫌うのは日本固有の文化ではないかという説が出てきた。
もう十年ほど日本を出ていないので、現在の諸外国の情勢を全く知らないのだが、先世紀末 TGV に乗っている数時間 (在来線に乗り入れて終点まで)、ほとんど休みなく電話をかけ続けている人物がいたのを覚えている。もっとも、その頃は日本でも電車で大声で喋る人達がいて、それを抑制する方へ社会が動いて行ったと思う。
自分自身、声高な電話や不意に鳴る呼出音は不快に思うが、小さな声であればあまり気にならないような気もし、過度な相互監視意識があるようにも感ずる。

日本人は静寂が好きなのかと思うと、街中の騒音に関しては非常に寛容なことに思い至る。街宣車に驚く外国人の話はよく聞くし、商店街が騒音を流し、商店が騒音を流し... 

この差はどう理解したらよいのだろうと思う。表現の自由を主張する勢力があるのだと想像はしてみるが、肉声で語ることを認めて、拡声装置を禁止すれば充分ではないか。人々が寛容なのでなければ、騒音を野放しにすることで利益を得るところがあるのだろう。


ところで、公共の場で呼出音を鳴らすのが無粋なことだと思われて以降も、着メロとか着うたとかを売っていたように思う。あれは、誰がどういう状況で使うためのものだったのだろう?

2009/12/01

"A Happy New Year"

以前からいろいろな日本人に話をして、「同感」と言われたことがないのだが、"A Happy New Year" という言葉の使われる場面は、どういうところだろう? 私の仮説は、それは新年になる前だろう、というものなのだ。

We wish you a merry Christmas, we wish you a merry Christmas, we wish you a merry Christmas, and a happy new year♪

という歌は、まだクリスマスになっていないからこそ、こう歌われるのではなかろうか?

クリスマスの当日に A merry Christmas! と言われたら、ずっこけそうな気がする... しかし、パーティーの後で見送られる時に A happy new year! と言われるのは、ごく自然だ。まだ新年ではないのだから。

同じように、元旦に A happy new year! と言われたら、「いつの正月だ!?」と思ってしまう....

こういうことを考え始めてから、まともに native speaker と話したことがないのだが、どうだろう?

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