小学校の時に、近所の英語塾に週一時間だけ通っていた。その先生は YWCA と関係があったようで、一度御茶ノ水の支部 (?) に行ったことがある。
その先生には私の一年上の息子さんがおられて、後に私も通うことになる男子校に入られた。
一方、私は五歳の時にピアノを習い始めたが、初めて楽器というものを意識して魅力を感じさせてくれたのが、新八犬伝の主題曲だった。
ここの pizzicato を聴いて「この楽器が好きだ」と思い、親にそれはコントラバスだと教えられた。今、聴き直してみると「違うか?」とも思うけれど、その時はコントラバスを弾きたいと思ったものだった。調べてみると、1973 年。四年生になった時に、コントラバスという楽器を知ったことになる。
おそらく、その後に音楽の授業で白鳥を聴いてチェロを知ったのだと思うが、その時にチェロを弾きたいと思うほどの魅力は感じていなかった気がする。
(新八犬伝書庫)
さて、そこへ英語塾の先生のお子さんから、その中学ではチェロが習える、という話が舞い込んできた。そこで、親に「チェロもコントラバスも仲間だ」と誘導された記憶がある。それは六年生になってからのことだったが、それを種に受験することになり、進学教室に通う身となった。
いざ受験となると、その私立校だけでなく国立の男子校も受けることになり、当初の志望はどこへやら第一志望は国立に転んだ。家の経済状態を心配したところは、あったかも知れないけれど。
そして、二月の受験。私立が先にあり合格。後の国立は一次は通ったが、二次の作文で落ちた。
(その作文は「美しいと思うもの」という題で書かされたのだが、後年、そこの出身者がその年の優秀作品を教えてくれて、それは敵わないと思った。その作品は、山に登ってご来光を迎える様子を描写したものだったと言う。自分が書いた作文があまりに子供っぽくて、思い出すのが嫌になった)
そうして国立に落ちたおかげで、晴れて四月からチェロを習うことができた。
学校にある楽器は四挺だけ。その年は希望者が多くて籤に外れ、最初から楽器を買わなければならなくなったが、親がそれは買ってくれると言った。私立に通わせるだけでも大変だっただろうによく出してくれたと思うが、Karl Höfner の中古の楽器が十八万だったか子供には天文学的に思える額、それに弓が三万八千円だったことの方を鮮明に覚えている。
そこでチェロを教えて下さったのが、廣田幸夫先生である。今そのお名前を探してみても、音楽家になった先輩お二人、樋口 隆一さんと茂木 新緑さんの profile にそのお名前があるのが引っ掛かるのがやっとだが、芸大の先生が非常勤で週に二日教えに来られていると聞いていた。火曜に中一を一学年六組それぞれ一時間と、土曜に高二の音楽選択者を三、四時間。
当時はこの学校には定年がないように聞いていたが、廣田先生は相当年配であるように思っていた。しかし、逆算してみると今の自分より僅かにお若かったことになる!(◎_◎;)
先生には、中一の間は週に一度十分間の休み時間だけレッスンを受け、二年生からは始業前にもう少し長く教えて頂いた。始業前に数人レッスンして頂いていたのに順番を決めた記憶がないのだが、冬は暗い時間に家を出て、中央線で夜明けを迎えて学校に着いてみると、先生が先にいらして燈油ストーブで部屋を暖めて下さっていて、申し訳ないと思いながら同じことを繰り返していた気がする。
先生に習ったのは、チェロと音楽部の活動としての男声合唱。音楽の授業でリコーダーは習ったが、それ以外には器楽を習ったことはなかった。オーケストラをやりたいと言ったことがあるが、それをやるには各楽器の先生を呼んできちんと習わなければいけない、その機は熟していないと言われたように思う。
せいぜい、初めて弾いた室内楽、モーツァルトのフルート四重奏を北軽井沢 (!) の合宿に持って行ったら、上の E の音をその時点で習っていた第四ポジションで取っていたパート譜に、運指を書いて下さった。第一と第四ポジションしか知らなかったのに、第二も第三も使った、全く「子供向け」ではないまともな運指だった。
高二の音楽の試験は自由選択曲で、弾いても歌ってもよかった。私は、チェロはいつもレッスンで弾いているのでそれを改めて授業の試験で弾こうと思いつかず、陸上部に居るピアノ弾きを捕まえてモーツァルトの二台のピアノのソナタを弾いた (「のだめ」は懐かしかった!) のだが、試験の後でぼそっと「チェロを弾いてくれなかったな」と言われて、初めて先生の心を知った。後悔先に立たず。楽器を二つ弾いていたための失敗であった。他のすべての場面で両方続けていてよかったと思ったのだが、この時ばかりは。
さて、私は卒業するまで廣田先生に習えたのだが、その後割とすぐに、先生は中高に教えに来ることができなくなった。後で音楽部の顧問だった先生に伺ったところによると、芸大の弦楽器科に海野さんを呼ぶ時にそのポストを空ける必要があり、廣田先生がソルフェージュ科に行かれることになったのだそうだ。生徒への説明は、芸大で教授になられるので、もう非常勤で来られなくなる、というものだったと聞く。
こちらは大学で管弦楽団に入ったが、そこでは各自の楽器の個人レッスンを受けることが入団の条件だった。その有難い (教育的な) 条件を満たすためもあり、積極的に個人レッスンにお宅に伺うことができた。中高時代、学期中は時間に制約があったから、大学に入ってからの方が濃密にレッスンを受けられた。
今調べると、カンダ・アンド・カンパニー の事件があったのが高三の冬なので、レッスンに行けずに悶悶としていたのが大学一年の時だったことになるが、吉田秀和の批判のおかげか、管弦楽団で肩身の狭い思いをしないで済む程度の時期にレッスンを再開して頂けたのだと思う。
その後、修士論文だったか博士論文だったかで忙しくなったあたりでレッスンをやめてしまったが、西武線で実家から四駅という地の利があり、同窓の管弦楽団員の中で一番多くレッスンに通ったと思う。
先生は、レッスン代を取って下さらなかった。それは奥様の意向だそうで、戦後の苦しい時代に教師を校内に住まわせてくれた学校に恩義を感じ、戦後三十年以上後の我々からも、卒業後であっても取って下さらなかった。
さて、ソルフェージュ科に行かれた先生から伺ったのが、Henriette Puig-Roget 先生のことである。
「ロジェ先生」と呼んでいらしたが、先生を芸大に呼んで来たのが自分の最大の功績である、と口癖のように言われていた。
中高に非常勤で来られなくなってからも音楽部の指導にはいらしていたのだが、その演奏会にロジェ先生も呼ばれたそうだ。
廣田先生が作曲科の先生に委嘱されたのだったか、詩篇の男声合唱を初演したと伺ったように思う。それを始めとする合唱曲を聴いてもらうのが主だったのだろうと想像するが、私にとっても大先輩の渡辺 達さんのピアノを聴かれたロジェ先生が、「彼のピアノは立派だ」と言われたと、後年聞いた。
私が中高生の時にも一度、廣田先生と (渡辺) 逹さん達先輩で、シューマンのピアノ五重奏を弾かれたことがあった。OB が自然に演奏会に参加する音楽部だった。廣田先生の教え子が年に一人はいたから、器楽ではチェロが余る部だが、足りない楽器に OB を呼んでブランデンブルク協奏曲も 4, 5, 6 番は弾いたし、2 番は後輩が弾いた。ただし、2 番のトランペットはクラリネットが吹いたそうだ。
廣田先生は、一昨年の同窓会でお元気で、昨年もいらしたそうだがこちらが上を下への大騒ぎで出席できなかった。
逹さんは、2012 年に急逝され (訃報)、先生は大変嘆かれていた。もちろん、我々も落胆し、学校の食堂で開いた会は、卒業以来会っていなかった人にも沢山会った。
計算すると、14 年上の先輩ということになるが、音楽部の毎年二回の演奏会には必ず来られて各曲にコメントを下さった。そして、おそらく廣田先生が非常勤講師として来られなくなってから特に、音楽部の活動を支えて下さって、幅広い同窓生がお世話になった偉大な先輩だった。
亡くなる前年に吉祥寺で音楽部の同窓生の集まりを企画して下さり、そこで私はずいぶん久し振りに廣田先生と逹さんにお会いできたのだが、逹さんとはその時が最後になった。
廣田先生に何度も言われたことがある。音楽は職業とせず、趣味にしなさい、と。同じことを、大学の管弦楽団の指揮者二人からも、言われた。夢に見たことはあれど、とても自分の力の及ぶ世界とは思わなかったが。
一昨年お会いした時も、皆に向ってそのことに触れられ、ならなくてよかったでしょ? と確認されていた。同窓には、守らなかった者も少なくないのだけれど。
先生が、どのようにして音楽学校を目指されたか、聞いたかも知れないが覚えていない。しかし、ご経験に基づいた信念だったのだろうと思っている。
廣田先生のお歳を正確に覚えていないが、一昨年九十歳は越えていらしたと思う。父よりも五年以上上の筈で大正のお生まれだと思う。音楽学校から戦争に取られて生還されたと伺った。
素晴らしい音楽の先生であると共に、偉大な教育者でいらっしゃった。
次の同窓会が開けてお会いできることを、祈っている。
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